一筆法話47
『不貪』(むさぼらず)
布施という言葉は、お坊さんに差し出すお礼のことだと理解しておられる方がほとんどでは
ないかと思う。しかし布施とは仏教的に言えば、僧俗の別なく私たちみんなが実践していかね
ばならない修行の一つである。私たちはより良い社会の実現を目指してこの社会を形作ってい
る。仏教では理想的な社会を目指す実践項目がいくつか有る。その一つが布施行である。
布施といっても三施といって三種類の布施がある。一つは衣服・飲食・田宅・珍宝などを他
に施す財施(ざいせ)。一つは法施(ほっせ)といって人々に仏法を説き聞かせることで、こ
れもちゃんとした布施の一つである。最後の一つは無畏施(むいせ)といい、一切の衆生に畏
怖(いふ=おそれこわがる)の念がないようにさせることをいうのである。よく偉い人で、そ
の人の前でひれ伏さないと気分を害するという人がいるが、布施の精神からは遠くなる。それ
とは逆に観音さまを別の名で施無畏者(せむいしゃ)というのは、衆生に畏怖の念が起こらな
いようにするからである。だから観音さまの前では、ことさらにひれ伏す必要はない。
修行時代、托鉢に出かけることを仏教用語では次第乞食(しだいこつじき)という。次第乞
食とは軒並み家を托鉢(たくはつ)して廻り、一軒もはずさないことをいう。昔からやかまし
く、
「家を一軒はずすなら、その村ごとはずせ」
と言われてきた。だからそこの家がキリスト教であってもイスラム教信者であっても全部托鉢
するのが当たり前であった。また、お金持ちであろうと貧しかろうと平等に廻ることになって
いる。お金持ちや偉いといわれる人しか相手にしない僧はニセモノである。そして子供から喜
捨(きしゃ)を戴くときも、美人から喜捨を受けるときも同じように頭を下げる。但し、南方
のお坊さんは決して頭を下げない。それは相手に善根を積まさせてあげてるから、頭を下げる
のは布施をするほうで、お坊さんはふんぞり返っている。日本人は本当の意味で仏教本来の意
味をあまり知らないから、お坊さんも頭を下げないと石をぶっつけられる恐れがある。
福井の永平寺を開かれた道元禅師が書かれた「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)に、
「その布施といふは不貪(ふどん)なり。不貪といふは、むさぼらざるなり。むさぼらずとい
ふは、よのなかにいふへつらはざるなり。」
(正法眼蔵 菩提薩リヲ四摂法巻=第四十五)
とある。布施は「へつらわない」という気持を込めて行う修行である。むさぼらない心が布施
の第一であるから、財施でも法施でもしぶしぶの気持で行う布施は布施にならない。仕方なし
に、へつらいの気持で布施の行をしてはならないと道元禅師は戒めておられる。僧侶も布施の
多少によって接する態度を変えては、まさしく布施の精神から外れる。私も法施の修行という
ことで「すみませんねえ」という気持で時々、みなさんに下手な説法をしている‥‥‥‥‥。
ま、‥‥‥おあいこか。
一筆法話
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